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2/26/(Tue)   《ブラザー亮へ》


日和下駄に蝙蝠傘、荷風先生よろしく、、そんなイデタチでは闊歩できん季節なれど、、、。

冬の小雨、アスファルトから立ち込めるかすかな匂いに沸き立つ郷愁の念。

どこが故郷なんてちっともわからんのだけど、、、。

冬の指先をみれば逆剥けて、、、もうすっかり親などいないのに親不幸はまだ続いてると伺えるのは、、、

きっと親父の13回忌にも顔をだせん所為だろうな、、。

そんな親父の命日も近いことだし、、、今夜はちょっと親父の話。

オレはひとりっこ、珍しくもないだろうが小3の春に親が離婚して、中2の夏まで親父と二人の暮らし。

親父は根っからのギャンブラー、きっとそいつで身を持ち崩しオレが産まれてまもなく自分の会社を潰した。

『実家に帰らせいただきます』

そんな母の台詞は日常茶飯事で、、、子供心に『まただ』とよく思っていたもんだった。

でも9歳の春に出てったおふくろはホントに返って来んかった。

いつの間にか母の荷物がすっかり無くなっていた朝、親父がオレをたたき起こして言った。

『なぁ、どっちにつく』

『転校はいやじゃけん』

結局、その言葉が最後まで効いたらしい、、、結果親父と二人の暮らしが始まった。

ほんとにおふくろが出てくってその日、親父は親戚に囲まれて終始ただただうつむいたままだったけど、、、。

一度だけ声をあらげて立ち上がったのをみんなに止められていたのをオレは階段から覗いていたんだ。

あんとき親父は泣いていたんだろうか?

けど、次の日から親父はオレには時化た顔はみせんかった。

オレだけにしか笑えんかったんかもしれんなぁ、、、とふと思ったりする。

親父は所謂、普通の会社員ではあったんだけど、かなり明るいやくざ気性の持ち主であるが故のフーテンへの憧れを如実に幼いオレにもさらけ出してたよ。

『近々、おとうさんは屋台のラーメンをはじめることにした、、こいつは儲かるけん、小遣いもあがる可能性大です』

またある時は、、、

『来年の春からお好み屋をやることにしたけん、オマエの友達は全部ただにしたる』

どれもこれも現実にならんかったことはいうまでもないが、、、。

家に風呂はあったが毎日銭湯に通い、帰り道に飯をくう、、、そいつが新しき生活の新しき仕組み。

スパーカブの後ろにまたがって水島の町に出てくのが好きだった。

親父は映画館にはよく連れてってくれたっけ、、、

ゴジラ対なんとか以外は寅さんとやくざもんと、あとは西部劇。

寅さんはシリーズ全部見てるのはきっと、その幼い頃からの蓄積だな。

マカロニウェスタンの影響で学芸会でオレは西部劇をやって、そいつもシリーズ化したことは前にもかいたな。

映画館以外にも日曜日とあらば、友達共々ヘルスセンターにつれてってくれたりもね。


『船、見に行きたいか?』


ある日、はしゃいでついていったそこは競艇場だった。

猥雑なおっさんがたむろするそこで『ここでちょっと待っとけよ』と言われてオレは泣いた。

困った親父は早々に家路を辿ったんだ。

あの日、親父は買うはずの舟券をオレの所為で買い逃し、きっとそいつは万券だったに違いない、、、ハハッ。

中2の半ばから高校あがるまでオレは自分の意思で親戚の家に世話になることにした。

親父がいやだったわけじゃない。

田舎に行きたかったんだ、、、休みになったら遊びに行ってたからね。

卒業するまでは毎年、盆と正月には大阪で落ち合い寅さんをみた。

でも卒業して(京都に行ってからは)そいつもだんだんとなおざり、、、電話もあんましせんかったったし。

いつも親父の方から電話で、『オマエはほんまに薄情な息子やで』とどやされてた。

オレから電話するときは必ず金をせびるときだけ。

でも彼女ができた時は倉敷に行って親父に紹介した。

家に行くとおもむろにビデオを流しだす、、、そいつは競艇のレースのビデオだったりして、、、

何かんがえとんじゃー、この親父はと思ったけどなんか可笑しかった。

親父が逝っちゃうさらに十年くらい前、ライブツアー中に親戚のおばちゃんから電話があり、、、

『おとうさん、倒れて入院してるって!原因はわからんのよ』

確か長野あたりでいたんだと思うが、最後のライブを終えてすぐに倉敷に戻ると、親父は盲腸だった。

大げさな血筋は身を持ってオレも知ってはいるが、病院に着くと、

『腹膜炎をおこしてんのかもしれんなぁ』などとほざく親父の傍ら、

『藤山さん、そろそろ歩いてくださいねぇ』

看護婦さんに言われていてそれは大笑いしたなぁ。

じゃけん、親父が死ぬなんてほんと考えられんかった、ぼんやりとは想像したりするものの、ほんと親父は長生きすんだろうなぁって思ってたんだ。

みんなそんなもんだろうねぇ、、、。

でもそっから約10年後、、、癌を宣告され、余命3ヶ月、、、。

ただ、親父は手術後、ほんとに元気になったんだ。
それで、調子に乗って働いちゃった。

6ヶ月すぎた頃、風邪をこじらせて肺炎になっちゃってさ、、、再入院。

オレが東京に出てきた1年目のことだった。

再入院してからはとにかく病院が嫌だったらしく、

『こんなとこにいたら、殺される、、もう出せ』って。

病院から電話があってね、とにかくつれて帰ったんだ。

そっから3日間が親父とふたりで過ごした最後の3日間だった。

寝たきりの親父ではあったけど、床から、、、

『おい、メロンとスポーツ新聞こうてきてくれ』

そんで、競艇のページ広げてね、かすかな声で『あ?このレースやりたいのぉ』なんてね。

4日目の朝に、親父に言ったんだ、、、『ばぁちゃんとこにかえろうか』って。

そしたら親父もうなずいてね。

もう親父、歩けんかったから車椅子で新幹線で大阪までそっから車で名張まで、、、。

そんで2日後だった。

オレはほんとなんもできんかったし、死ぬまで親父のスネをかじりっぱなしだった、、、

だから、オレCDつくったんだ、ファースト。

だからって、どうってことないんだけどね、、、いまだリリーフランキーでもないし。

ただ、親父は死んでからの方がのほうがずっとそばでいんのね、、、気持ち的に。

神様なんて信じちゃいないし、霊的なこともあほらしい、、、

だけど、どうにも親父にゃ見られてるようなね、、、。


四万十のブラザー亮の親父さんが今月亡くなられた。

お会いしたことはないが、あの亮の親父さんはそりゃあ、男の中の男に違いない。

心からご冥福をお祈りします。

ただ、どんな親父でもオレたちは親父のことが好きでよかったなぁ、、、

そんでバカデカイと思えてよかったなぁ。

今夜は亮とそんな親父の話をしたかっただけなんだよ。

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